伝統組踊保存会

楽器の紹介

楽 器

 沖縄を代表する楽器は?と問えば10人中10人が迷うことなく三線サンシン)、と答える。

琉球王国時代には三線以外にもさまざまな楽器が使用されていたにもかかわらず、今日では三
線が県民的楽器であることがわかる。
首里城での慶賀(ケイガ
や御冠船踊(カンセンオドリ)、または江戸上り(エドノボリ)の際に奏(ソウ)された室内楽(シツナイガク)を「御座楽(ザガク)」というが、それは中国の明・清楽系統(ミン・シンガクケイトウ)の音楽を奏するものであった。そのときの楽器には、弦楽器(ゲンガッキ)に瑟(ヒツ)、二線(ニセン)、三線(サンセン)、四線(シセン)、琉三絃(リュウサンゲン)、長線(チョウセン)、琵琶(ビワ)、胡琴(コキン)、揚琴(ヨウキン)、月琴(ゲッキン)、提琴(テイキオン)などがあり、打楽器に二金(ニキン)、三金(サンキン)、銅鑼(ドウラ)、三板(サンパ)、小鉦(ショウショウ)、金鑼(キンラ)、小銅鍵(ショウドウラ)、新心(シンシン)、両班(リョウハン)、韻鑼(インラ)、挿板(ソウハン)、ハウ子(ハウツ)、檀板(ダンバン)、相思板(ソウシハン)、着板(チャクバン)などがあり、吹奏楽器(スイソウガッキ)に篳篥(ヒチリキ)、半(ハンショウ)、哨吶(ソナ)、立(リッショウ)、横笛(ヨコブエ)、管(カン)、銅角(ドウガク)、喇叭(ラッパ)、洞簫(ドウショウ)、十二律(ジュニリツ)などがあった。また、琉球王国時代に中国から伝来した道中楽(ドウチュウガク)を「路次楽(ロジガク)」と称するが、それに使用する楽器には銅鑼(ドラ)、両班(リャンハン)、哨吶(ソナ)喇叭(ラッパ)、銅角(ドウカク)、鼓(クウ)、新心(シンシン)などがあった。現在、古典音楽の演唱に使用される楽器は三線(サンシン)、箏(コト)、笛(フエ)、胡弓(コキュウ)、太鼓(タイコ)である。


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◆三線(さんしん)

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 三線はサンシンという。沖縄の人たちはジャビセンとかジャミセンという呼び方はしないし、そういう呼び方をきらう。

 三線は14世紀末から15世紀初頭に、中国から伝来した。当初、いわゆる宮廷楽器として定着したが、次第に庶民にも普及し、祭りや民間芸能にも登場して隆盛をきわめていった。そして、永禄年間(1558〜1570)に琉球から大阪の堺にもたらされて本土でも普及し、三味線音楽として発展する。

 三線は中国から伝来して以後、琉球では琉球の音楽に合うように工夫され、改良が加えられた。琉球王府では貝摺奉行(カイズリブギョウ)で三線製作を行っており、それによって名工が輩出し、名器が生まれた。「工工四(クンクンシー)」(もとは中国の「工六四(クールシー)」)という三線楽譜も創案され、整備された。

 


◆箏(こと)

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 箏は、1702年に薩摩に公務ででかけていた稲嶺盛淳が、八橋流箏曲の奏法を学んで琉球に伝えたと言われている。その後、仲本興嘉(1784〜1851 )・興斉(1804〜1865)父子が筆演奏者として活躍し、御冠船踊にはじめて等を三線の伴奏に使用した。興斉の高弟であった手登根順寛(生没年未詳)が箏譜(箏工工四)を編集した。琉球箏曲は、歌物として船頭節、対馬節、源氏節の三曲を保存継承している。この3曲は本土伝来であるにもかかわらず、本土では節名、歌詞、旋律ともにこれら3曲の原曲に当たるものは見当たらないということである。


◆太 鼓 (たいこ)

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 太鼓の胴には、ケヤキや松などのくりぬき胴と、雑木を寄木して作った桶型胴や樽型胴があって、その胴に皮を鋲で留めるか紐で締める。琉球音楽では寄木の樽型胴が普及している。その他、締め太鼓、平吊り太鼓、平方太鼓、片面張りのパーランクーなどがある。古くは『李朝実録』1463年の記事に「・・・・鼓や銅鑼を打ち鳴らして・・・・」とある。

 

 

 


◆笛(ふえ)

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 六孔の横笛で、明笛の構造である。1832年の「琉球人舞楽御巻物」の地謡に笛を演奏する絵がある。戌の御冠船踊(1838年)の躍番組にも笛の演奏があったことを記しである。

 

 

 

 


◆胡 弓(こきゅう)

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 中国から伝来した胡弓は三弦であったが、これでは琉球音楽は十分に表現ができないということで、1965年に又吉真栄(1916〜1985)が改良して四弦の胡弓を製作し、普及させた。又吉は1972年に『胡弓工工四』も編集している。



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